智頭林業の今昔

はじめに

平成30年2月13日、「智頭の林業景観」が国の「重要文化的景観」のひとつに選定されました。智頭では、江戸時代の初期に林業が勃興して以降、林業が核となって豊かな自然と山林、山村集落、宿場町などの豊かな文化的景観を形作ってきました。この文化的景観の選定には、平成16年の文化財保護法の改正に伴い、有形や無形などの文化財の種類として景観の文化的な価値を評価し、これを地域で守り継ぐための新たな制度が生まれたことが背景にあります。そして、多様な文化的景観のうち、特に重要なものを「重要文化的景観」として国が選定する制度が整えられました(智頭町教育委員会)。

このコラムでは、このような智頭の林業景観を醸成した自然、林業とその歴史的背景、そして人々の暮らしなど、智頭林業の今昔について解説します。

芦津のスギ天然林

日本のスギの天然林は、北は青森県の鯵ヶ沢から南は鹿児島県の屋久島にまで、特に日本海側に沿って分布しています。太平洋側に分布するスギはオモテスギ、日本海側に分布するスギはウラスギ(アシウスギ)とよばれますが、葉の形状や耐雪性に違いがあり、遺伝的にも差異が大きいことが認められています(文献1)。

智頭町の沖ノ山スギは典型的なウラスギです。智頭町芦津地区のスギ天然林は、東部の若桜町に隣接する東山(とうせん)(1,388m)から鳴滝山(なるたきやま)(1,287m)の稜線を境として、南西斜面に広がっています(写真1)。


写真1:芦津の天然林

なお、智頭町の沖ノ山(1,318m)の位置は南の岡山県英田郡西粟倉村に接する県境に近いところです。智頭林業では「沖ノ山スギ」という品種名が知られていますが、現在の沖ノ山周辺のスギ天然林はそれほど多くはありません。
ウラスギは冬季の積雪の影響を強く受けるため、下枝が雪によって地面に圧着され、やがて発根して栄養繁殖します。これは「伏条更新」と呼ばれ、多雪地帯に特徴的なスギの更新のしくみです(写真2)。


写真2:スギの伏条更新

スギの天然林を遠望すると、伏条更新によって母樹の周囲に新たな個体が発生するため、スギの個体分布はクラスター(集団)構造になっています(写真3)。


写真3:天然杉のクラスター構造

芦津地区のスギ天然林は、その多くを芦津財産区が保有しています。芦津財産区の天然林は、西端で「沖ノ山国有林五十九林班」に隣接します。この林班は面積が約88ヘクタールの天然林で、全体が「沖ノ山林木遺伝資源保存林(沖ノ山スギ・ブナ・トチノキ等遺伝資源希少個体群保護林)」に指定されています。

智頭の林業創始と藩の政策

智頭の町の東側に位置する牛臥山の山麓には、慶長スギと呼ばれる約400年生のスギが20本ほど生育しています(写真4)。


写真4:約四百年生の慶長スギ

文禄2年(1593)、智頭町東側の牛臥山麓が山津波(高麗水)によって崩壊し、多量の土砂が町に来襲、堆積しました。その後、山体に防災のために造林が行われたが、その名残が慶長スギと考えられています(文献2)。

鳥取県は因幡の国(因州)と伯耆の国(伯州)の2国からなります。藩主は江戸時代を通じて池田氏です。池田宗家の光政が因伯二州32万石の太守として入部したのは、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した元和元年(1615年)でした。智頭では光政時代の15年間で、藩有林としての御立山(おたてやま)が設置されましたが(文献2,4)、御立山では入会権が停止されました。管理には山奉行(材木奉行、竹伐奉行、山廻奉行)が当たり、これによって軍事・経済に必須の山林資源涵養を計ったのです。

やがて寛永九年(1632年、光政は岡山に転封し、代わって岡山から、池田氏分家で、徳川家康の外曽孫にあたる光仲が入封しました。光仲以降、鳥取藩は積極的な植林計画を進めるようになりました。智頭での植林が初めて古文書に現れるのは承応二年(1653)です。この時、智頭郡駒帰(こまがえり)村の惣兵衛が、無立木地にスギを植栽したことが記録されています(文献4)。

享保年間(1716年~1736年)になると、新林と呼ばれる植林地が拡大し始めました(文献2)。享保五年(1720)の記録では、入会地の草山を侵食して造林が進められたようです。このため、緑肥、燃料、飼料、屋根葺き材料など多用途の草資源が得られた入会地の草刈り場が縮小し、また奥地に草を求めなければならなくなり、多くの農民が困窮することになりました。また焼き畑が抑制されたことで、貧困に拍車がかかりました。さらに享保六年(1721)には、木地師が利用していた奥山(木地山)も御留山(おとめやま)として入会権が停止されました(文献2)。

このように厳しく管理が進められたにもかかわらず、享保年間には山林の荒廃が進行し、御用材木の資源が不足してきたことが多くの記録に現れています。例えば享保十年(1725)には、智頭郡東宇塚(ひがしうづか)村など10ヶ村余の山林が、また同十一年(1726)には口波多(くちはた)村など4ヶ村の山林荒廃が記録されています(文献4)。山林の荒廃進行は、伐木を制限し天然更新によって森林資源を涵養しようとする消極的な森林政策には限界があることを示しています。

古文書に、安永四年(1775)には佐崎村清水ヶ谷でスギ苗1,400本を植栽、寛政四年(1792)にはスギ苗70本が植えられたとの記録が現れます(文献2)。このようにスギの植林は徐々に進められていましたが、文化九(1812)年、鳥取城下で大火災が発生し、多くの建物が消失しました(文献3)。この復興のため、鳥取の木材需要は増大しました。そこで藩では、文化年間から文政、天保年間(1820~1840ごろ)にかけて、大植林政策を打ち出しました。同時に藩は、木材の藩外への輸出(津出)を厳しく制限(御差留)するとともに、木材の価格を抑制する政策を取りました。この結果、木材販売による収入が激減するばかりか、さまざまな負担が増加したために、智頭の山村民は困窮することになったのです。さらに年貢は木材切手の代納(銀納)でしたから、納付が困難となり、経済破綻状態に陥ることになりました。

天保3年(1833)には、時の大庄屋であった国米(こくまい)仁右ヱ門が藩政府に「津出」制限の解除を陳情した記録があります(文献3)。このような状況のため、住民の側に立ってさまざまに苦労を重ねた大庄屋・国米家は、幕末動乱期には没落する運命をたどることになりました。

実生苗の育成と植林

智頭の天保期以降の造林記録をみると、ほとんどが実生苗による植林です。造林樹種は地域ごとに指定され、スギの造林は八頭郡内の八東(はっとう)若桜(わかさ)、池田、佐治(さじ)、智頭、山郷(やまさと)の各村に、またアカマツの造林はその他の町村に割り当てられました。天保3(1833)年7月19日付のスギ植栽命令をみますと、智頭郡駒帰村の御山奉行、岩本庄右ヱ門から、駒帰・福原・中原・白坪・奥村・尾身・大内・毛谷・篠坂・郷原・西村・大呂・芦津・および八河谷の智頭町内14地区にスギの植林が文書で通達されています。この天保3年(1833)のスギ造林については、智頭町山郷地区で134,295本が植林されたことが記録されています(文献2)。

造林に用いられた実生苗は量産が可能です。天保8年(1837)8月7日、智頭郡の横田忠太夫に対し、宇塚(うづか)杉の実を一升ほど差し出すよう命じています。嘉永五年(1852)の記録では、大庄屋の国米一右衛門が杉の実二石を供出しています。さらに安政六年(1859)には山奉行の小橋准蔵が杉の実を採取するように通知した記録があります(文献2)。

このように藩の植林政策は進められていましたが、幕末の山村民はますます困窮したようです。嘉永二年(1849)には、八東郡奥部や智頭郡の奥部が困窮していることが記録されています。この原因として、米作りの環境不良、米供給価格の低下、購入する飯米の価格上昇などがあげられ、さらに銀納による貢租が厳しく、堕胎や間引きが横行しました。このような状況はやがて労働力の減少につながっていく可能性がありました。

鳥取藩は、困窮する山村民の救済事業として植林を奨励しました。植林に要する苗木の代金、賃金、手入れの費用などの諸経費は、官費で負担しました。ある記録によると、スギ苗3,020本の代銀は60目(匁)4分8厘(60.48匁)でした。銀1匁を現在の価値換算で1,250円としますと、3,020本の苗木代金は75,600円、1本で25円程度です。このように藩が経費を支弁したとしても、毎日の食にも事欠く貧農にとっては、用材林育成のための植林などは、よけいな労働負担だったのです。

実生苗から赤挿し苗へ

江戸時代後期の智頭における植林の大きな特徴として、天然スギから採穂して挿し木し、作出した「赤挿伏條苗=赤挿し苗」の利用があります(文献2,4)。赤挿しによる挿し木苗の生産技術の開発は天保期(1830~44)に始まります。古文書では、弘化年度(1845~48)に「杉苗挿し木法伝授」などの記録が見えます。また嘉永二年(1849)に記された「植物方日記」には、植林は「根分ケでも実植」でもよいことが書かれています。しかし嘉永年間では、依然として実生苗の造林が中心でした。

文政5年から天保9年(1822~1839)まで大庄屋を務めた石谷源左衛門は、「沖の山」のブナ・スギ天然林に着目しました。彼は天然スギの伏条更新した若木から枝を採取し、挿し木苗を作出して、これを用いた植林を提唱しました(文献4)(写真5)。


写真5:かつて挿し穂が取られた伏条更新している若木

挿し穂を取る枝は2年目のシュートで、切り取って挿し付ける部位の樹皮がスベリン化して褐色となっていることから、「赤挿し」と呼ばれました(写真6)。


写真6:スギ赤挿しの挿し穂

源左衛門は中庄屋の長石覚十郎や大河原四郎平などの協力を得て、智頭内の庄屋60余名に土地とスギ苗を与え、家の周囲や谷間などに挿し木苗の植林を試みました。

通常、老木の枝を挿し木しても、カルスとよばれる(こぶ)が切り口にできるばかりで、ほとんど発根しません。しかし、伏条更新した個体のように若返った木から採取した枝を挿し木すれば、発根して育っていきます。かつて、このような枝を採取した経験のある古老の話では、一日に千本ほどの枝を採取して持ち帰ったものだそうです。挿し穂は流水に1週間ほど漬け置き、田の隅に日覆いをして挿し付け、2年ほど育苗してから山に植えました。

一方、赤挿しで得られる苗木は生産本数に限りがあり、需要を満たすことが困難でした。そこで挿し木は、採穂園などの造成と相まって、若い木の当年生シュートのみを用いた「青挿し」がもっぱら用いられるようになり、苗木の量産が可能になりました。つまり智頭は、勃興期からの実生苗による造林に加えて、天然スギの存在を背景とした挿し木苗を用いる挿し木苗造林の特徴を持つ林業地として発展してきたのです。

明治期を迎え、このような挿し木苗育成の技術は、明治中期に活躍した徳林家の大呂甚平や石谷源左衛門の子孫である石谷源蔵などの活躍によって一般化されていきました。智頭で植林されるスギは「沖ノ山スギ」という名称が与えられていますが、この名は挿し木苗に冠されたものです。沖ノ山スギは挿し木苗が多くの天然スギから得られたクローン複合体であり、単一のクローンではありません。

國岡静雄氏(智頭町の林業・昭和57年)(文献4)は、智頭林業年表によって以下のように智頭の林業史をまとめています。

  1. 創始期:慶長年間(1594ごろ)の木地師の活動、慶長スギ植栽(1603年以降)、寛永年間(1624~)の「池田光政」による植林の奨励。
  2. 初歩期:承応二年(1653)の駒帰村での植林記録、享和年間(1716ごろ)の山林荒廃、宝暦年間(1752ごろ)の山奉行の布令による管理強化。
  3. 初期:寛政四年(1789)の植林記録、天保年間(1830ごろ)の「石谷源左衛門」の活躍による赤挿し苗の作出、安政年間(1854ごろ)の藩による植林の奨励。
  4. 興隆期:明治年間(1869~)、大呂甚平・石谷源蔵の活躍による赤挿し苗をはじめとする挿し木育苗の改善と一般化。

スギ天然林と今日の問題

赤挿し造林の源となった天然スギは、今もなお、かなりの数が存在します。写真7は標高1,170mに現存する最大級の個体です。


写真7:芦津のスギ古木

このスギは樹高25.5m、胸高直径2.0mです。また樹齢は、約400年生の慶長スギの直径を大きく上回ることから、500年以上と推定しましたが、おそらく、もっと年を経ていることでしょう。この樹幹は、かつて地上5mほどの位置で大きな損傷を受けた可能性があります。損傷後には、新たな萌芽シュートが複数立ち上がり、成長して現在の樹冠を形成しています。また幹の下部には空洞があり、外部から容易に空洞内に入ることができます。心材部は腐朽していて内部に木部の腐植が堆積しています。さらに内側の木部表面は、落雷によるものとみられる炭化した部位が確認できます。しかし、空洞の存在にもかかわらず、樹幹は多くの葉を有しており、おおむね健全な状態にあるといえます。

さらに天然林には、日本最大級のオヒョウ(樹高31.5m、胸高直径1.74m)をはじめ、ミズナラ、トチノキ、クリ、ミズメ、ホオノキ、カツラなど、多くの広葉樹の巨木が確認できます。なおこのオヒョウは、残念ながら2023年の夏の台風によって倒壊してしまいました。

芦津天然林では、この20年ほどの間にニホンジカの個体数が急激に増加しており大きな影響をおよぼすようになりました。シカはさまざまな植物を採食するとともに、山頂近くのスギを若木、老木の区別なく樹皮を剥いて餌とします。このため、幹を一周して剥皮された多くの個体が立ち枯れています。(写真8)。


写真8:シカが剥皮した天然スギ

芦津のスギ天然林の林床にはチシマザサ(いわゆるネマガリダケ)が優占していました。スギの樹皮や広葉樹の若木の葉を採食するシカはチシマザサの葉も大量に消費します。チシマザサは稈高2mにもなりますが、被食圧の高まりによって現在では20~30cmほどに抑制されています。またシカが採食しない有毒のイワヒメワラビが分布域を拡大しており、遠望すると草原のような植生となったところが広がっています(写真9)。


写真9:イワヒメワラビの群生

スギの多くは、樹齢やサイズを問わず、シカ害の影響を強く受けており、剥皮による衰弱・枯損が顕著です。したがって幼齢木の個体数も極めて少なく、更新はほとんど進行していません。また全体的にブナが優占する森林ではありますが、ブナの稚幼樹もほとんど見いだせません。さらに矮化したチシマザサとイワヒメワラビが密生する草原のような植生景観となってきています。

まとめ

智頭林業発展の経緯を簡単にまとめると以下のとおりです。

  1. 智頭町芦津地区にはスギ、ブナが優占する希少な天然林が存在する。このスギの存在が、智頭林業の源泉となった。
  2. 芦津の天然スギは多雪地帯のため、伏条更新で栄養繁殖する特性を持つ。
  3. 芦津の天然スギは「沖ノ山スギ」と呼ばれる智頭林業のスギ品種の由来となっており、その母樹も現存する。
  4. 沖ノ山スギはかつて、伏条更新したスギから採取した挿し穂によって増殖が計られ、いわゆる赤挿し苗として生産された。
  5. 芦津の天然林の植生は1990年ごろから急増したニホンジカの食害によって急速に劣化し、更新が強く阻害されている。また、天然スギも樹皮や幼稚樹の食害を強く受け、枯損木が増加しつつある。

引用文献

  1. Tsumura, Y. et al. 2014. Genetic differentiation and evolutionary adaptation in Cryptomeria japonica. G3: Genes| Genomes| Genetics, g3. 114.013896.
  2. 吉田 冥寞:「鳥取藩の林政と智頭林業の沿革」 昭和40年(ちえの森ちづ図書館蔵)
  3. 町史編纂委員会編:「智頭町の林業史 第1集 幕末より維新」昭和47年、鳥取孔版社(ちえの森ちづ図書館蔵)
  4. 國岡 静雄・町史編纂委員会編:「智頭町の林業」昭和57年、綜合印刷出版 (ちえの森ちづ図書館蔵)

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