「木曽悠久の森」にかかわる大住・吉田両氏の意見交換

塾長の山本福壽です。

令和6年9月19日に開催された大住克博先生(鳥取大学名誉教授)のサイエンス講座「美林の生まれ方:木曽檜林にみる歴史と神話」の終了後、九州大学総合研究博物館の吉田茂二郎先生との間で、意義深いメールのやりとりが行われました。お二人の許可をいただいて、その全文を掲載します。なお、山本が若干の添削を加えております。


吉田先生から大住先生に質問

大住様

今回の話では、3番目の悠久の森の話が、今置かれている、あるいはこれまで考えてきた人工林を伐採前の森林に近い形に戻していく取り扱いについて大変興味がわきました。
〇 吉田は、鹿児島大にいた経験から、霧島山系のアカマツ、モミ、ツガ天然林の調査をしました。さらには、屋久島でヤクスギ林の調査もしてきました。その時両地区とも基本的には国有林で、戦後に天然林から人工林に転換しているわけですが、幸いにして人工林周辺には保護樹帯などを含めて天
然林が残っている状況があります(幸い、植林後に十分な手入れをしていない)。その人工林内(霧島の800m以上の地域はヒノキです)を調査すると、周辺の天然林からの側方天然下種が隣接林縁から50~100mまで(風向きによりますが)、更新している例を多く見ました。よって、天然林に戻す施
業としては、この天然更新した前世樹種を残し、植栽木を伐採していく方法が最も天然林化を早くするものと思っています。当時の署にも進言しました
が、その後はほったらかしか、帯状伐採をしていたようです。ただし、鹿がいると・・・。

ちなみに、霧島山系の全国有林をGISに入れて、上記のような方法で約50年弱で人工林化したものをもとの天然林に戻すのに何年かかるかを推定したら、約200年かかるとなりました。正確な面積は忘れましたが、数万ヘクタールだったように思います。

御存じかもしれませんが、昨年は屋久島が世界遺産条約に登録されて30周年でした。当初から山の上だけのエリアでは狭すぎる、改善せよと指摘されながらまったく手付かずでした。しかしここにきてやっと環境省がエリアの拡大をする気になって、その計画の基礎資料を2年間で作成するようにとの依頼が屋久島の活動団体にありました。その手伝いを九州管内の研究者が集まって一緒にやることになっています。上記のような考えを導入し、さらに別の基準を設けて、遺産登録コアエリアを保護するバッファゾーンを作り、将来的にはコアゾーンに繰り入れることを考えています。

悠久の森の考え方や、施業等で参考になるものがあれば見せていただければ幸いです。宜しくお願い致します。

吉田茂二郎

大住先生から吉田先生への回答

吉田様

木曽悠久の森につきまして、お問い合わせをいただきました。悠久の森は復元を目指すという点で既存の保護林制度とは異なりますので、中部局として独自に設定したものです。どちらかと言えば関東局の赤谷プロジェクトや九州の綾プロジェクトの仲間でしょう。悠久の森には管理委員会が立ち上げられていて、局として計画書を作成しています。

計画書は復元を標榜していますが、まだそのための施業体系はできてません。木曽では半世紀以上ヒノキ天然更新試験が様々に行われてきましたが、一部を除いて良好な結果を生んでおらず、当面ササやシカ、カモシカの食害も制御できそうにないこともあり、事業レベルでの実施は現状では無理です。にもかかわらず局は天然檜材供給の為に悠久の森の外で天然林を伐採し天然更新を図っていますが、更新成績をどれほどチェックしているのかは??です。

そういう技術的状況ですので、悠久の森での管理方針の主柱は、網をかけたことで残存天然林の伐採を中止させたことであると言えます。介在する人工林をどうするかというのが今後の課題ですが、これは間伐を行いながら天然更新を促進し、徐々に天然生林に移行させていくという方針です。と言いながら信頼瀬の高い更新前術は前述のように無いので、当面は間伐を入れて様子を見るということになるでしょう。この人工林の扱いについては、委員の間では異論があったのですが、16,000haを確保するために局の主張に譲歩したという面もあります。

私はそもそもの提案者なので立ち上げから関わってきました。局側のスタッフには、なかなか悠久の森が温帯性針葉樹林生態系の復元を目指すという目的がきちんと理解されません。話していると木曽ヒノキ美林の再生→将来の天然木曽ヒノキ材の育成との混同が頻繁に起きます。これは今でも抜けきれません。

面積や計画期間の長さという点では、国内では結構画期的な取り組みだと思うのですが、10年経つのにあまり知られていません。局側にとってみれば、昔の幹部が何を間違ってか研究者の口車に乗って作ってしまった厄介なお荷物であり、あまり社会に知られないほうが良いという意識があるのでしょう。シンポジウムやテレビ番組化などの実施を提案してきたのですが動きませんね。

その後も大阪局の大杉谷周辺にも同様の復元プロジェクトを始めようと局に接触してみましたが、警戒されたのか、最後まで現地を見せてもらえませんでした。

木曽では折角できた16,000haなので、いつの間にか管理方針が骨抜きされて、目的がおかしくならないよう少し気を付けて関わらなければと思っているところです。他にも設定の経緯、経過などいろいろなことがありましたが、またご関心がありましたらお尋ねください。電話やzoomでお話申し上げます。 

大住克博

吉田先生から大住先生へ

大住様

早速のご返信ありがとうございます。他の研究者と情報共有することにします。

局、署の対応は、九州でも同じですね。昭和の終わり頃の63(1988)年にさかのぼりますが、霧島で研究を始めました。普通林地(人工林)と保護地域(天然林)が接している場所があり、天然林と同じ林相の林が普通林地へこぶ状に約5haほぼ突き出ており、その普通林地の天然林の択伐計画に自然保護団体がかみついた格好です。でも択伐と言いながら、実際は直径30㎝以上のものをすべて伐採するものでした。300年を越すモミ、ツガ、アカマツ天然林では30㎝以上だとしても、それは全部の針葉樹を抜き切りすることを意味し、保護団体からかみつかれるのも当たり前です。ということで、署はどうしたかといえば、大径木の伐採率を2パーセントと極端に少なくし、保護団体から文句が出ないよう計画変更を行い、伐採はほとんど林分ならびに林床のかく乱がないようにしたのです。よって、本当に上手な抜き切りをやってのけ、林内の光環境は多少改善しましたがすぐにもとに戻り、ツガましてやモミでさえ更新することはありませんでした。署はここを択伐指標林として20年後30年後の森林の様子を描き、立て看板を立てましたがそれっきりです。

私は、その択伐指標林を利用して試験地を作り、周辺の人工林、天然林を加えて、モミ、ツガ、アカマツ天然林施業の確立を目指して、研究を始めました。結局、あまりにも立派な?抜き切りで、署が考えたようには更新は起こらず、まさに画餅とはこのことだと思いました。ただし唯一更新した場所があり、そこは伐採して林道まで索道で出すための帯状伐区(幅10~15m×長さ約80m)で、木材の運搬で地表面が攪乱され非常に明るいのでアカマツが鹿のアタックを避けながらも立派に更新しました。さらに帯状伐区により、伐区に接した林内には側方天然下種更新によるモミの更新が見られました。ということで、皮肉なことというか、天然林の取り扱い、施業が全くわかっていないことを露呈したわけです。択伐後に更新したものを育てる作業を行うべきでしたが、まったく何もしなかったのです。もう伐採して35年くらいになるので、最後に調査して署が設置した20年後、30年後の林相との違いを明らかにしたいと考えています。

この話には、オチがあります。なぜ立派な天然林ながら普通林地であり、また伐採されずに残っていたかが不思議で調べてみました。すると、あの寺崎渡博士(1876~1962)がこのあたり一帯で天然更新試験地を設定された(昭和7年研究資料、当初は約20ヘクタール)ようで、当時は林内にアカマツを含むたくさんの稚樹があったこと記録されています。この試験研究があったために残ったものだったのです。

吉田 茂二郎

山本福壽

智頭の山人塾 塾長。鳥取大学乾燥地研究センター・元特任教授。農学博士。2016 年より鳥取県智頭町に移住し、塾長に就任。

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