獣害とジビエ

シカの害

近ごろ、日本中で獣害が大きな問題となっています。特にシカによる森林被害が顕著で、29年度版の森林白書では、森林獣害の77%、6000ヘクタールもの森林が食害を受けています。

シカはシキミ、ナギ、アセビ、ワラビのような有毒の植物、ミツマタ、ゴマギ、ベニバナボロギクのような臭いの強い植物、ススキのように固くて葉縁に鋭い刃を持つ植物などは嫌いますが、それ以外のほとんどの植物に口をつけます。このため、スギ、ヒノキのような針葉樹でも、苗木を植えた途端に葉を食われてしまいますし、もうすぐ伐採・収穫できるようになった大木でも、根元から樹皮を剥ぎ取って食べてしまいます。

皮を剥かれた樹木は、その傷口から腐朽菌が侵入し、やがて腐り始めますので、木材としてはほとんど使い物になりません。つまり、林業がまったく成り立たなくなるのです。

奈良公園のシカ

奈良公園には千頭を超えるシカがうろうろしています。これだけの高い密度のシカが、一定の場所に集まっているところは世界のどこにもありません。シカは春日大社のお使いの神鹿(しんろく)として天然記念物に指定され、1300年も前から保護されてきており、観光客には絶大な人気を博しています。

奈良のシカはシカせんべいばかり食べているのではありません。境内の芝生は、シカが口を使ってきれいに芝刈りをしています。「春日山原始林」というものすごい名前の付いた春日大社の神山は、アセビ、ナギ、ナンキンハゼ、ヒメワラビなどの有毒な植物ばかりが目立ちます。

山にはイチイガシやスダジイの老木は多いのですが、それらの稚樹や若木はほとんどなく、どんぐりや芽生えはシカに食べつくされています。このままでは、数十~数百年を経て、老木が死に絶えたら、春日山は有毒植物ばかりの不気味な原始林になってしまうことでしょう。平成27年になって、奈良県は周辺の農作物被害軽減のため、シカの密度を減らす行動をとり始めました。しかし一部の動物保護団体はこれに強く反発しており、問題解決の先は見えません。

高密度のシカの問題は、今や奈良公園ばかりではありません。智頭町で初めて私がシカの角研ぎ跡のあるアカマツの幹を見たのは、今から20年近く前のことでした。それが今では、山を歩くと必ずと言っていいほど、シカの群れに出くわします。例えば芦津渓谷に行きますと、チマキザサやチシマザサの葉はほとんど食われ、多くの広葉樹の樹皮は剥がれ、触っても痛いチャボガヤの葉までもボロボロにされています。当然、ヒノキやスギの若木もほとんど食われた痕があります。

ヨーロッパの肉食文化

シカ害の問題解決の方策として、狩猟による間引きと利用、つまりジビエ肉の消費促進が日本中のいたるところで検討されています。またハンター数の激減も大きな問題です。昭和51年には50万人もいたハンターは平成27年には10分の1の5万人にまで減少しています。また残ったハンターの老齢化も深刻です。まさにハンターは今や絶滅危惧種なのです。これに対してヨーロッパやアメリカでは大型獣の狩猟は人気の高い伝統文化であり、狩猟者の減少で悩んでいる、ということはないようです。

かつて、中世ヨーロッパでは森林は領主によって厳しく管理されており、森林内のシカ、イノシシ、ウサギ、鳥類などを狩る権利は王侯貴族や教会によって独占されていました。ジビエ(gibiers)はフランス語ですが、野生動物の肉を日常の食料とするのは、農民よりもむしろ、支配階級の伝統でした。その食べ方は、塩を振って直火で炙り、手づかみで食べる、という質朴なものです。

一方、農民は、ジビエにはまったく手が出せませんでした。ある農民がシカを殺して肉を得たところ、極刑に処せられたという例もあります。森林は領主の食糧供給地と考えられており、それを犯すものには残虐な刑罰をもって臨んだのです。これに対して農民は、秋になると彼らの重要な家畜であるブタを森林に放ち、ドングリを飽食させて太らせ、年末に塩漬け肉などの貯蔵食糧を準備するのが生きるために必要でした。ところがシカ肉を常食し、ブタを卑しんで食べない領主は、農民がブタを森に放つのを極度に嫌い、常に紛争の種となっていました。

ちなみに英語で牛肉はビーフ、豚肉はポーク、羊肉はマトン、仔羊肉はラム、鶏肉はチキンと呼びますが、シカ肉はベ(ヴェ)ニソン(venison)です。馬肉は利用されてこなかったためか、専用の言葉がありません。

日本のジビエ開発

ひるがえって日本では、シカ肉もイノシシ肉も実は一般庶民の伝統的な食糧でした。シカは古代では「カ」、イノシシは「イ=ゐ」と呼ばれ、カの肉がカノシシ(鹿の肉)、ゐの肉がイノシシと呼ばれたのです。シシとは肉(ししむら=肉叢)のことです。ついでにカモシカはカモシシ、アオシシなどと呼ばれ、これまた肉の名がついています。

仏教による禁忌はあったものの、江戸時代でも、獣肉を食べようと思えば手に入りました。江戸には「ももんじ屋」というジビエを扱う肉屋がありましたし、大阪落語の「池田の猪買い」にもあるように、「薬喰い」と呼ばれた肉食文化が庶民の間に連綿として続いていました。イノシシ肉は牡丹、山鯨、シカ肉は紅葉、鶏肉は柏(カシワ)、馬肉は桜などと呼びました。近江の国の彦根藩名物の牛肉の味噌漬けは全国的に知られていました。

今日、イノシシ肉に比べてシカ肉の需要がなかなか伸びないのが悩みの種です。ハンターの間でも、イノシシ猟は人気があり、食肉として利用する意思が高いのですが、シカはともすれば森林内で処分され、持ち帰られることは少ないのです。森林内で処分されたシカはクマが喜んで食べるほか、イノシシ、タヌキ、キツネなどのエサになってしまいます。

しかし、平成25年から鳥取県若桜町でシカの解体処理ができる施設の「わかさ29工房」が発足しました。また智頭町でも、もうすぐ稼働する予定です。これらの施設がシカ肉消費を推し進めるけん引役を果たすのは間違いありません。

しかし、それとともに質が高くておいしく、しかも上品なメニューの開発も急がねばなりません。鹿ラーメン、鹿どんぶり、鹿カレーで留まっていてもいいのでしょうか。シカ肉は脂肪が少なく、美容と健康に最適の食材であり、ヨーロッパ王侯が食べ続けてきた高級食材、ベニソンです。これを、健康で美しくありたい高級志向の人々に、もっとアピールするべきでしょう。

山本福壽

智頭の山人塾 塾長。鳥取大学乾燥地研究センター・元特任教授。農学博士。2016 年より鳥取県智頭町に移住し、塾長に就任。

1件の返信

  1. 2019年3月26日

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