スギと日本人
ヤマとモリ
江戸時代以前から、日本の山地は多くが採草地や薪炭林として利用されていました。
裏山の採草地は、草を刈って田んぼの肥料にしたり、牛馬のエサとしたり、屋根ふきの材料としたりして、農業や生活に欠くことのできない資源供給の場でした。草とともに伸びてくる潅木は、刈り取って乾燥し、燃料にしました。昔話の主役のおじいさんは、「森へ木を伐りに」ではなく「山へ柴刈に」出かけたのです。
今日、多くの人が山林を指して「モリ」と呼びます。しかし山人にとって「モリ」とはこんもりと樹木が生い茂る神社の森(杜)のような樹叢(じゅそう)のことであって、草や薪を取るところはあくまで「ヤマ」なのです。このようなヤマは戦後の拡大造林によってスギやヒノキなどの針葉樹人工林に変わってしまいました。しかし、今でも山村の人々は、そこを「モリ」ではなく「ヤマ」と呼んでいます。林業はヤマ仕事であってモリ仕事ではないのですね。
暖温帯地域の草山は、草を刈ることをやめると、たちまちコナラなどの広葉樹林に変わっていきます。コナラは若いうちからたくさんの実をつけるために、たちまちにしてコナラが優占する山に変わります。このような広葉樹林は薪炭林として繰り返し伐採利用されてきました。これが里山です。
里山を越えて天然の大木がうっそうと茂る奥の方に分け入りますと、そこは昔話で活躍する鬼や山姥(やまんば)が住んでいるところです。もちろん山姥はモリンバではありません。ここが奥山です。古代人は死者の行くヨミの国は山の奥にあると考えており、奥山はまさに異界なのです。
この異界にも、林野庁は戦後、森林鉄道を敷設してどんどん斧鉞(ふえつ=オノとマサカリ)を入れ、ブナなどの広葉樹の大木を伐り出して針葉樹の造林を進めました。しかし保育管理の行き届かない奥山の造林は、雪による根曲がりなどが発生して生育が不良であり、多くの奥山の造林地で木材の収穫が期待できる生育状況になっていません。
スギの天然林
それでも、智頭町の芦津集落の奥の芦津渓谷には、貴重なスギの天然林がブナやミズナラの大木とともに分布しています。
この地域は「氷ノ山後山那岐山国定公園」の区域に指定されており、「遺伝資源保存林」として管理が行われています。つまり、芦津の奥山の沖ノ山スギ天然林は、屋久島にも匹敵する貴重な森林なのです。
天然スギは小集団ごとに分布していますが、雪が多いために「伏条更新」によって個体が増加します。
伏条更新とは、自然に起きる取り木のように更新する現象です。下の方の枝が雪によって地面に圧着されるため、やがて発根して枝は独立した個体として成長していきます。このような更新は日本海側の多雪地帯で広く認められます。
縄文時代のスギ
奥山のスギの天然林は必ずしもスギの「ふるさと」というわけではありません。元来スギは、もっと下流の平坦な場所、例えば鳥取平野のような所の方が生育の適地でした。過去のスギの分布について、長年にわたって堆積した沼地などの泥土に含まれる花粉化石の分析結果をみますと、今から3000~1万年ほど前の縄文時代は、どこもかしこもスギだらけだったことがわかります。
島根県の大田市三瓶町小豆原には三瓶山の噴火による火砕流や泥流によって3500年前に埋もれたスギの巨木からなる埋没林が展示されています。
富山県の魚津市でも、海岸近くの海中に2000年ほど前のスギの根株が見つかっています。さらに鳥取市の湖山池からは、3500年ほど前のスギの丸木舟が2艘発掘されています(鳥取市博物館)。これらから考えますと、スギは水気の多い平野部の環境の方が生育に適していたのではないでしょうか。おそらく、平地のスギ林は人間の活動によって消えてゆき、やがて田んぼに変わっていったものと思われます。
スギの利用
スギは通直で割りやすく、加工が容易なため、古代から盛んに利用されてきました。古事記では、スギは素戔嗚尊(スサノオノミコト)のヒゲが変じてできたそうですが、「浮宝(うきたから=舟)を作れ、と書いてあります。また年輪の詰まった木材は柾目に薄く割って曲げ、サクラの樹皮などで固定して水や食物などを入れる器として利用しました。これが曲げ物(曲げわっぱ)です。
以下に掲載した写真は面桶(めんつう)、めんぱなどと呼ばれた曲げ物の弁当箱です。
曲げ物が登場する前は、木材を刃物でえぐり、ボウルの形に整えた「刳(く)り物」が使われていました。曲げ物は秋田県の大舘が有名ですが、最近、智頭農林高校や卒業生が生産する曲げわっぱの質がどんどん向上して評価を高めています。
しかし曲げ物は繊細すぎて、弁当箱ならまだしも、多量の水、酒、味噌、醤油、漬物などを長期間ためて置いたり運搬したりできる大型の器を作るのは不可能でした。また陶器の壺は、大きくなるほど重量が増し、しかも高価なうえに割れると修理も不可能なため、一般的な利用は困難でした。
そこで容器として登場してくるのがスギで作られた桶(おけ)や樽(たる)です。
これらは節のないスギ材を年輪に沿って割った榑(くれ)と呼ばれる板を削り、竹などのタガで締めつけて作ります。このため、「結い物(ゆいもの)」と呼ばれます。無節の材は天然林の木材か、下枝が脱落した長伐期の大径材で得られます。
大陸の技術の伝来によって日本に結い物が登場したのは鎌倉時代の末期でした。フタがないのが桶で、フタがあるのが樽です。最近ではスギの桶や樽を用いて醸造された酒や醤油などはきわめて少なくなっています。しかし、一昔前は、どの家庭でも桶や樽はごろごろしていたのです。
かつての吉野林業や智頭林業では、クレ板を丸く束ね、樽丸(たるまる)として出荷していました。しかし桶や樽の需要は近年のプラスチックの容器に取って代わられ、急速に消えていきました。これは林業の大きな危機でした。その後の林業は建築用材の需要によってなんとか支えられてきたのです。
今の木材需要
ところが最近になって、木材の需要は大きく変化してきました。無垢(むく)の木材を用いた木造建築の需要は減少し、これに代わってCLT(直交集成板)などの集成材がもてはやされるようになりました。
このため、A材と呼ばれる高品質の木材が売れなくなり、CLTなどに加工される質の低いB材や、チップ・燃料などに使われるC材が木材流通の主流となってきています。つまり安物ばかりが売れる時代なのです。
これまた林業の大きな危機なのです。林業は、木材消費者で成り立つ産業ですから、都市のみなさん、良い木材をもっと使いませんか。
スギと公衆衛生
このように桶や樽などの結い物は近世の日本人の生活必需品でした。とりわけ桶は、公衆衛生に大きな威力を発揮しました。都市と田舎とを問わず、肥桶をかついで屎尿(しにょう)を運搬する風景を見るのは日常のことでした。
近世、江戸や京・大坂などの大都市は世界でもっとも清潔な街だったといわれます。これは毎日、都市の屎尿は外部の農地に運び出され、肥溜めの中で熟成して肥料として利用されたためです。そこには郊外の農業生産と都市の屎尿処理が一体となった究極のリサイクル社会がありました。
それを回していたのが無節のスギ材で作られた水の漏れない桶でした。全国のあらゆるところでスギ桶は大活躍していたのです(遠山富太郎 1976「スギのきた道」中公新書)。
これに対してヨーロッパでは都市や農村を問わず、各家はおろかベルサイユ宮殿のような王侯の邸宅でさえ、トイレはなかったのです。人々はみんな「おまる」で用をたし、屎尿は窓から街路へ捨てていました。このためパリのような首都でも街の中に糞便があふれ、不潔極まりない状態でした。中世のヨーロッパではペスト、チフス、コレラなどの疫病が猖獗(しょうけつ)を極め、1832年にはパリでコレラによって1万8000人もの死者が出るに至りました。
その時代、ヨーロッパには頑丈な重いワイン樽はあっても、水溶液を運搬できるスギ桶のように軽くて丈夫な容器はなかったのです。農業における肥料はすべて、家畜の堆肥によってまかなわれており、人糞尿は野外や河川に放棄されるばかりでした。
マーケットで売られる白いマッシュルーム(ツクリタケ、ハラタケ科)は、生でサンドウィッチにも利用されるおいしいキノコです。これは昔のヨーロッパでは馬糞の堆肥に出るキノコでしたが、今では上品な食品となりました。このキノコを見るたびに、中世ヨーロッパの堆肥農業を思い起こします。残念ながら日本の肥溜めには、このようなキノコは生えてきませんでしたね。
こんにちは。
お世話になっております。
先ほどご連絡させていただいた、鹿児島県熊毛郡屋久島町志戸子区のティモンズ桜と申します。
今回盆踊りがないのが寂しかった私は、私のルーかしツのある屋久島町志戸子区の古い民謡を歌ってみようかなという考えに至り、テープを探したり曲を調べていました。テープの音源を聴く中で明らかに志戸子の方言ではない曲(一部方言が混ざっているが、メインの言葉が違う地域の方言に聴こえた)があったので、聴き取れる範囲でネットに検索かけたところ、鳥取県八頭町宇波で1987年に収集した音源の言葉とほぼ一致していました。(音源は朗読のような感じで、メロディはありませんでした)。そこで私は鳥取から屋久島に人が流れた可能性があると仮定し、音源が投稿されていた鳥取博物館の方にコンタクトを取ってみましたが、内容自体にはとても興味を持っていただきましたが、人の流れは推測することができませんでした。その後私は苗字について調べてみたところ、なぜか共通の苗字や近い苗字は有りました。とくに一つの苗字に関しては智頭町には多いが、屋久島の中では志戸子にしかない苗字だそうです。さらに智頭町について調べると屋久島と共通していることがたくさんありました。鳥取の中でも古くからの林業地として知られていること、特に
そこで育った杉は「智頭杉」と呼ばれ、品質の高い木材として評価されているとのこと。林業の流れを見たら、人の流れがわかるかもしれないと仮定しました。
ここまで調べたらもう行くしかないと思いましたが、智頭町にゆかりのある人、知り合いがいればもっと面白い考えに至るかなと思い連絡いたしました。新たな発見があった次第には、二つの街が行き来できる、交流できるきっかけを作りたいなと思いました。コロナ禍で色々大変ではありますが、昔ほど交通の便が悪いわけでもなく、物理的には会おうと思えばどこの人と会える世の中。過去に一生会えないと泣きながら別れた家族がいるその地があるとしたら、何世紀も何世代も超えた後に交流を持つことが出来るなんて、なんとも浪漫なことだと思います。
恐れ入りますが、よろしくお願いします。
ティモンズ桜様
屋久島と智頭との間で地域文化を通じた交流の痕跡があったとは驚きです。明治初年に鳥取から釧路に開拓団が移住し、今もなお釧路に麒麟獅子舞が受け継がれているのは知っていましたが、屋久島にも人の移動があった可能性が高いですね。掘り下げていくと、さらなる発見があるように思います。またご連絡ください。